『約束の海』のことなど

山崎豊子の絶筆となった『約束の海』は、普段ほとんど目にすることがない海上自衛隊の潜水艦「くにしお」を舞台にした作品であるだけに、異質な世界に触れる興味も手伝って、楽しく読むことができました。艦内での日常業務がきわめて詳細に描出されているためか、福井晴敏の『亡国のイージス』とは違った面白さです。
1988723日の「なだしお事件」をモデルにしていますが、作者はこの事件をできるだけ冷静に捉えようとしていく苦心の様子が、随所にうかがえました。最初に自衛隊バッシングがあり、やがて海難審判で事実が解明されていく展開は、『運命の人』で、「ひそかに情を通じて・・・」という問題にすり替えられた日米密約問題が、裁判の過程で明らかになっていく経緯とよく似た構成になっており、説得力があります。
また、事故後、亡くなった人の仏壇の前で涙する主人公に姿には、『沈まぬ太陽』で日航機墜落事故の犠牲者宅を弔問する主人公の姿が、重なりました。
このように、過去の作品の印象的な場面が、今度の作品でも基層低音として奏でられていることも、この作品の特徴と行ってよいと思います。
この作品は第一部で終っていますが、収録されている「『約束の海』、その後」に主人公が海軍の軍人であった父親と交わす会話があります。
「はい、遠く太平洋までも続くこの海には、大昔から商船のみならず、世界の船が行き交いました。そのうちに、利権が生じ、戦いの場とも化しました。先の戦争では戦艦大和が米軍爆撃によって沈みました。その他にも、日米の多くの戦艦が沈んでいる鎮魂の海なのです。しかし、武力での争いがどんな結果をもたらすか、父さんたちはよく知っているはずです。多くの戦争の犠牲者たちが今も眠っている海を、再び戦場にしては行けないのです」
「そうだ、この日本の海を、二度と戦場にしてはならないのだ。それが俺とお前だけの約束にならぬように、信念を貫き通せ」
 第一部の終わりに、「国を護る、戦争を起こさない努力をする仕事こそ、困難であろうとも、やはり自分が命を燃やす甲斐のあることではないか?」と、主人公が語る場面があります。
作者は、「執筆にあたって」の中で、「戦争は絶対に反対ですが、だからといって、護るだけの力を持ってはいけない、という考えには同調できません。いろいろ勉強していくうちに、『戦争をしないための軍隊』、という存在を追究してみたくなりました」と書いています。上に紹介した会話は、作者の思いを伝えるものになっています。

安倍内閣の暴走ぶりをみるにつけ、「戦争をしないための軍隊」の存在が果たして可能なのか、いささか疑問になってきます。また、自衛隊の問題を、憲法九条との関わりでどのように押さえるか、も重要な視点だと思うのですが、作者の問題意識からは九条が抜け落ちていることも不安材料でした。そして、戦争と平和の問題を一国の枠内だけで考えるのは、この時代、あまり現実的ではないとも思います。

2014・5・26 会員M