被ばくした3人の労働者が、東電の関連業者の従業員であるということに言い様がない憤りを感じます。もちろん、東電の正社員であっても、絶対にあってはならない事故であることはいうまでもありません。ただ、この国には「原発ジプシー」という言葉があるように、危険な作業を下請け・孫請けの労働者に押しつけ、彼らの犠牲の上に安全神話が構築されてきたのです。
11年前、この危険性を告発した小説が発表されました。それをある新聞の書評で紹介しましたので転載します。
書評 藤林和子『原発の空の下』
91年10月、中部電力の原子力発電所で働いていた青年が白血病で亡くなった。両親が労災認定を求めていることを知った作者が、「1人でも多くの人が原発の危険について本当の事を知り、次世代のエネルギーについて共に考えあっていきたい」という思いからこの小説は書かれた。
名古屋の工業高校を卒業した伊藤拓也は原発技術者になりたくて、静岡にある浜松原子力発電所の孫請けの会社に就職する。入社5年目頃から白血病にかかり、本人には告知されないままに入退院を繰り返す。一時期は職場に復帰することもあったが、母親の必死の看病のかいもなく、症状は徐々に悪化する。名古屋へ帰って徹底的に治療しようよ、という弟の勧めにしたがって、26歳の拓也が名大病院へ移るところでこの作品は終わっている。
拓也の仕事は定期検査である。この時期になると、「原発ジプシー」と呼ばれる千人余の労働者が、外部から集められるという。
赤い作業服を着て手袋をはめ、そで口から放射能が入り込まないようにガムテープで密閉する。防毒マスクに似た半面マスクを顔面につけ、原子炉底のケーブルの中へ潜り込む。ステンレス製の細い棒を引き抜き、ペーパーでふき取る。コンクリートで密閉された原子炉建屋内は乾燥した熱気に包まれ、汗が流れ落ちるが、手が放射能に汚染されている危険があるためにぬぐうこともできない。鉛や鉄、白金などの混合物のにおいが充満し、マスクごしにその空気すら満足に吸えない。ビービーとアラームの警戒音が鳴っても、慌てて逃げ出さずに仕事を片づける。
安全神話がこの国の原子力行政を骨の髄までむしばんでいる時、これまであまり知られていなかった原発労働者の実際をきわめてリアルに描き出し、被ばくの危険性を明らかにしたところに、本書のすぐれて今日的な意義がある。
「原子力発電所から明かりが来ていると思うと、拓也の命を電気に替えているようで怖くて点けれないんだよ」と暗い部屋でつぶやく父親の孤独な姿に、作者は被ばくした息子を抱えた家族の悲しみと、やりばのない憤りを象徴しているようだ。
東海村で臨界事故がおこったのは、本書刊行の2ヶ月後である。
(東銀座出版社 1905円)
2011年3月27日 会員M