ノーマ・フィールドさんが問いかけるもの

先日札幌で、ノーマ・フィールドさんと小野有五さんの対談がありました。
小林多喜二が天皇制ファシズムの白色テロに倒れて80年。多喜二の視点でフクシマにどのように向き合うのかを問いかけるノーマさんの問題意識が新鮮でした。
ノーマさんは多喜二の作品から与えられた大事な視点として、運動を最も必要としている人々が、実は、その運動に参加することが困難な立場に置かれていること、そのような人々をどのようにして運動に加わってもらうのかが、多喜二の最大の関心事だったことを挙げています。
「1928年3月15日」の留置場の場面。浜の現場から引っ張られてきた労働者が、幹部にとって拘束されるのは「名前が出て偉くなったり、名誉」かも知れないが、自分がこうして働けないと、すぐさま妻子が食べられなくなると訴えます。
「新女性気質」では、オルグの山田がお恵について語る場面。「日暮らしの重み」につぶされそうなお恵を「立ち上がらせることができなければ、この運動は本当の根」を持つことはできないと語ります。
浜の労働者やお恵こそ運動を最も必要としているのですが、その運動に参加することが困難な立場に置かれている人々です。彼らを運動に参加させるために、どのように向き合っていくのか。多喜二の問題意識はつねにこの一点にありました。
フクシマの現実はどうでしょうか。
ノーマさんは、「不安の格差」という表現で、フクシマの現実に迫っています。
いわゆる「安全」な食品に手が届かない人が無関心になり、脱原発を主張する人を迷惑がる状況。原発が立地している地域の人々は、健康を案じながらも脱原発を主張しない状況。ノーマさんはこうした状況を「不安の格差」現象と指摘しています。
「不安の格差」状況下にある人々は、「運動を最も必要としているのですが、その運動に参加することが困難な立場に置かれている人々」でもあります。
フクシマの現実は、今こそ多喜二の視点の大切さ加減を浮き彫りにしています。
ノーマさんは、「行動は絶対に必要だが、前提を誤ると、分断を望む勢力の思うつぼにはまってしまう」と警告しています。
いま改めて、このことを考えてみる時期だと思うのです。

   2013・2・23  会員M